成田 昭彦氏単独インタビュー Vol.1 (pdf版)

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学校で習う音楽は嫌いだった

ノゾム:成田さんは昭和何年生まれですか?
成田昭彦(以下:成田)生まれは昭和22年です。
ノゾム:俺が昭和34年生まれだから12歳違う…猪年?
成田:猪年B型。一番しょうもない。
ノゾム:(笑)
--何月生まれですか?
成田:12月ですね。
--射手座のB型。
成田:まあ言ってみればね、そういうのって、だいたい危ない奴が多い。何となく僕はおとなしめで助かっています。
--スマートだったんですね。限度を知っているというか。
成田:まあ何と言うんですかね、一番幸運だったのは、やっぱりその、根性が無いっていうか、頑張ったり出来ないから。根性が無い、
責任感が無いで…だからそれでね、何かこう、程ほどに何とか生活して行けているのかなと。
--お生まれは新潟県ですか?
成田:そう。新潟と言っても富山県との県境です。糸魚川の隣りの…今は糸魚川市になっていますけどね。親不知とかあの辺の…。
ノゾム:あっちの方なんだ?山側?
成田:山側っていうか、もう目の前は海なんですよ。家は高台にあって、すぐ山なのよ。あまり平地が無いから、海がすぐ見える。
海まで歩いて10分位。でも振り返ると1200m位の山がそびえ立っている。
ノゾム:成田さんが生まれた所は標高何メートル位?
成田:標高は100メートル無いよ。50メートルも無いかもしれない。それで、そこは工場町なんで、最初は社宅に住んでいて、|
段々こう、山と言うか丘の方に引っ越して行って。
ノゾム生活状態の向上と共に(笑)
成田:そうそう、親父が班長から係長になったりしたのに従って段々上がって行って(笑)
ノゾム:人はやっぱり高い所へ上がって行くんだよな(笑)
成田:それでウチは段々と海が見える高台へ移って行って。
ノゾム:東京へ出てきたのは高校卒業後?
成田:高校まで糸魚川。
ノゾム:俺と一緒だ。
--音楽を好きになったのはいつ頃の事でしたか?
成田:好きになったのは…中学生の頃ですね…音楽はどちらかというと嫌いだったですね。
--学校で習う音楽が?
成田:そうですね。音楽自体を嫌いになったという認識は無いんですけど、学校の音楽が嫌いだったんでしょうね。
どっちかというと不得意だったんです。小学生の頃は歌も楽器も僕は音痴だと言われていたので、ダメで。
--今では考えられないですね。
成田:今でもその気はあるかなとも思うんですが。ダメでしたね。人と一緒にハーモニカを吹き始めると、
いつまで経っても言われた通りに出来ない。要するに言われた事をやるのが苦手だったと思うんです。
だから自分にはそういう才能は全く無いと思い込んでいて、親からも「音痴だ」と言われてましたね。
合唱でハモれなくて、自分が声を出すまでどの音程が出るのか分からないみたいな。
それでちょっとコンプレックスみたいなのがありましたから、嫌いでしたね。

雑音混じりのラジオで聴いたアメリカン・ポップス〜初めて買ったエレキ・ギター

--それが好きになったきっかけは何だったのですか?
成田:それはね、中学の時に同じクラスの友達が休み時間に口ずさんでいた歌が、ちょっといい歌だったので好きになって。
そいつに聞いてみたら、彼の兄貴がアメリカン・ポップス好きで、その兄貴がよく聴いていた歌を口ずさんでいて。
それが今でもよく覚えているんですけど、デル・シャノンの…。
--「悲しき街角」?
成田:そうです!その曲が好きになって、最初は有名な飯田久彦さん、当時は凄いアイドル歌手だった方が
歌っているレコードの日本語の歌詞を覚えたんですけど、オリジナルはアメリカの曲だという事を知って…それで、
「こんないい曲があるんだ!」と思ったら、その友達が「ラジオでヒットパレードをやっているよ」って教えてくれて。
それからヒットパレードを聴くようになったんですけど、生まれた場所が北陸なので朝鮮放送とか北京放送の電波が強くて。
ノゾム:そうなんだよ、俺達の所はハンパじゃない。もう大変だよ、凄い勢いで入って来るから朝鮮放送!
成田:東京の文化放送のヒットパレードは微かにしか聞こえないのに、朝鮮放送とかは鮮明に聞こえて。
ノゾム:凄いよね!俺達はあの電波の隙間をダイヤル回して文化放送とかを何とか探したんだから。
成田:割り込みが凄いんですよ。せっかく聴きたい曲が流れたと思ったら、いきなり混線して軍歌みたいなのがかかったりして。
ノゾム:懐かしいな…今考えると、あれ完全に違法電波だよね(笑)
成田:ひどいもんだったね。
--それで中学生の頃からシングルレコードとかを買い始めたのですか?
成田:そうですね、最初はヒットパレードを聴くのを覚えて。ヒットパレードって、「この曲は何位ぐらいだから、
今日は聴けるな」って思う訳ですよ。でも、それで曲を覚えようとしても埒があかないのでレコード買えば良いって
事になったのですが、ウチの町にはレコード屋が無くて。あの頃はラジオ屋って言っていたんですけど、それしか無くて。
隣りの糸魚川には『山岸時計店』って店があって。時計屋さんにレコードコーナーがあったのよ。
で、天井からギターが吊り下げられていて。その中で1本テスコのベースギターがあって…変な形の。それが高校生の時ね。
ノゾム:成田さんが高校生の頃って日本の音楽シーンはどんな状態だったの?
成田:ちょうどね、1964年にビートルズが入って来て。それからベンチャーズ…日本の音楽シーンは
歌謡曲でいうと御三家の時代ですよ。橋幸夫とか。
ノゾム:グループサウンズはもっと後?
成田:GSは俺らの世代だから。
--成田さんが20歳位の頃ですね?
成田:そうすね。僕はタイガーズとかあの辺の年代なんですね。でもGSを導いたのはもうちょっと年上のスパイダースとか
今70歳代の方々ですよね。
ノゾム:じゃあ、高校の時はバンドなんて学校には存在する筈は無いよね?
成田:存在してなかったけど、俺とその中学の時に歌を口ずさんでいた奴は高校も同じで。そいつも音楽が好きで、
高校2年生の時に2人でエレキギターを買って。
ノゾム:買ったの?!幾らで買ったの?
成田:最初に買ったのはテスコのセミアコ。ストラップの位置が漫才師の使うやつみたいな。それが当時で8500円。
ノゾム:当時で?結構な値段だよね。
成田:お年玉貯めたりね、親に上手い事言ってお金貰ったりしてね。
ノゾム:その時代、高校生でエレキ持っているって、かなりセンセーショナルだよね?
成田:と、言うか、もう不良。
ノゾム:不良だよね、もう完全に(笑)
成田:最初は親にも隠していて…でもバレるじゃないですか?で、周りの目も何か…。
-- アンプも一緒に買ったんですか?
成田:アンプは無かった。
ノゾム:何で鳴らしてたの?
成田:アンプはね、友達でトランジスタラジオをいじるのが好きな奴がいて、ラジオを改造して、それを木製のゴミ箱に据え付けて。
ノゾム:凄い時代だな(笑)
成田:それを鰐口で繋いで。
ノゾム:(爆笑)
成田:もう最初からディストージョン付いてる感じなの。弾いていて「ストーンズの『サティスファクション』みたいだ」なんて(笑)
--最初はギターだったんですね。
成田:そう、最初に買ったのはギターだったんですけど、何にも情報が無くて。どうやって弾いたらいいか分からなくて。
そのもう1人の友達が僕より耳も良くて、音楽的才能もあって、兄貴もいて情報が俺よりもあったの。それでそいつと
一緒に弾いて「こうやるんだ」って覚えて。でも最初はコードっていう概念が無いんですよ。分かんなくて。高校時代は本当にそんな感じでね。
ノゾム:え?じゃあドラムはもっと後?
成田:ドラムはもう大人になってからですよ。22歳を過ぎてから。
ノゾム:え!そうなの?珍しいね。
-- 高校の時は仲間内で演ったりとか…ライヴはしませんでしたか?
成田:ライヴをやる場所も無いし…友達の家でとか。もう1人金持ちの家の子がいて。不良なんだけどピアノを子供の頃から習っていて
上手い訳。それでそいつの所へ行って、3人でやっているうちにもう1人加わったりしてバンドっぽくなったんですけど、何せね、いわゆる
立場上…こう表向きに演奏出来る状況では無かったから。
ノゾム:時代が違うんだよ(笑)
成田:先生からも「お前、テケテケやってるんだろう?やめろ」と言われて。
--当然髪型とかは…。
成田:もう、坊主。高校時代は校則で坊主でしたよ。
--当時はビートルズとかストーンズとかキンクスとかが出てきた時期ですが、ああいうリバプール・サウンズはお好きでしたか?
成田:そうですね。最初は中学の時に聴いたアメリカン・ポップスが好きでしたけど、当時の音って、コードで言うとC、F、Gみたいな、
まあそれこそスリーコードみたいなものでしたけど、ビートルズって、なんか複雑で。まあ最初に入って来たのが「プリーズ・プリーズ・ミー」
とかsus4みたいなのが入っている曲で。最初に聴いた時は凄い違和感があったんですよ。「なんだこれは?嫌な感じ」みたいな。
でも何かその割に耳が行っちゃうんで…段々嫌いと言いながら気持ち良くなって行って。何かこう、酒飲んで「辛い」と思いながらもつい
飲んじゃうみたいな。
-- その後、ニュー・ロックとかサイケデリック・ムーヴメント、クリームとかが入って来ますよね。
成田:段々来ますよね。まあ高校まではニュー・ロックとかはまだ無くて、ビートルズとかでしたけど。それと同時にアメリカン・ポップスとかを
聴いているうちに、やっぱり黒人っぽい音に耳が行くようになって。
--モータウンとか。
成田:まだ高校の頃はモータウンっていう意識は無くて。まあ、サム・クックとかでしたね。あと、レイ・チャールズの曲って黒人女性コーラス
が入っているじゃないですか?あの声を聴くと「おおっ」と興奮して耳がビューンと伸びちゃって。「これ何かな?」って。だからビートルズが
黒人音楽好きで、それをコピーしてああなったっていう所に頭が行かなくて、全くの別物だと思っていました。どうしてもビートルズって黒人
みたいには聴こえないじゃないですか?だから自分の中ではあまり関連性は無かったんですけど、同じ傾向の音に惹かれて行ったんだな
というのは後から分かりましたね。

上京〜初バンドThe Kicks結成

ノゾム:東京へは進学で出て来たんですか?大学?
成田:大学ですね。当時の風潮は…親が頑張って稼いで、子供にはどうしても大学へ行かせて出世させたいいう感じで。
だから大学へ 行かなければいけないっていう所で育ったんですが、こっちは全くそんな気は無いんですよ。バンドやりたいっていう気持ちばっかりで。
それで僕は子供の頃から絵を描くのが好きで、絵ばかり描いてたんですよ。それで親に「受験どうする?こんな成績じゃどこも入れないぞ」って
言われて。それで「じゃあ俺、美術学校へ行く」なんて適当な事を言って(笑)「ビートルズも美術学校出身だし」なんて(笑)
それで美術学校だったら何とか入れるだろうと思っていたら、本当に入れました。武蔵野美大ですが(笑)競争率の低い学部を狙ってね。
ノゾム:上京して最初はどこに住んでたの?
成田:最初はね、鷹の台。
ノゾム:それじゃ、東京へ出て来て、ムサビで。ドラムはどこから始めたの?
成田:ムサビに入って、最初に入った下宿のね…。
ノゾム:下宿だ!(笑)下宿、懐かしいなあ。そこに住んでるのはみんなムサビの学生?
成田:うん。それで下宿に入って初日にね、メシ食って部屋に戻ったら、俺の部屋から見て対角線上の部屋に住んでいた奴が窓辺で
タバコを吸っていて、パッと俺の方を見るなり凄い顔してドカドカと俺の所へ走って来て「お前、エレキ持ってるだろう?」って言うの。
それは2台目のグヤトーンのソリッド・ギターでね。それをね、ネックとボディをバラして親には内緒で持って来たの。
ノゾム:持って来たんだ!(笑)
成田:そのちょうど組み立てて置いていたギターをそいつに見つかって。怒られるのかなと思っていたら、そいつ「俺もやっているんだ」って言って。
それでそいつと「バンドやろう」っていう事になって。
ノゾム:その時はまだギターですよね?
成田:そう、ギター。でもまだメロディしか弾けない。そいつに「じゃあコードを覚えなきゃ」って言われて「コードって何?ああ、ドミソの和音だ」
っていう感じで。そういう風に同じ学校の学生達でバンドを始めて。
ノゾム:それは学校のサークルみたいな感じで?
成田:サークルって言うか、まあ、やっぱり結局、不良の集まりみたいな感じだったんですけどね。
-- それでメンバーも、ばっちり揃って?
成田:段々と集まり始めて。それでまた、タイコ叩く奴が大阪の履物問屋のボンボンで、当時からプリンス・スカイライン乗ってて。
ノゾム:へえー、学生で自分の車持ってるの?
成田:ドラムセットも持っているし、車も持っているしで、もう好都合!それで急にバンド活動が順調になって(笑)最初は大学の先輩の
パーティーに出始めて。
ノゾム:その当時のバンドのレパートリーはどんな感じ?ビートルズ?
成田:ビートルズとかストーンズとか、ベンチャーズもやってたし。あと、その学生の時のバンド名はThe Kicksっていうんですけど…。
--ああ、ポール・リヴィアの。
成田:うん、ポール・リヴィア&ザ・レイダーズの「キックス」って曲が好きで。その名前を付けちゃったんだけど。必ずライヴはその曲から始まる
という(笑)俺、それしか弾けなくて。コードもロクに覚えられないからリードギターだけど、ただメロディを弾くだけ(笑)アドリブしか弾けないみたいな…
下宿の友達はリズムギターとヴォーカルで。ギター2人とベースとドラム。まあ、ビートルズ編成だね。
ノゾム:じゃあ、そのThe Kicksが初バンド?
成田:自分的には初バンド。まあ、高校の時のはバンドになっていなかったから。それで18、19歳の頃組んだそのバンドは学校の
ダンスパーティーにチョコチョコ出ていたんですけど、ダンスパーティーって年に何回も無いから「もっと頻繁に演りたいね」って事になって…
昔、立川に『ドミノ』って店があって。
ノゾム:知ってる、知ってる。
成田:悪い店があったんですよ。
ノゾム:本当に悪い所で…いかにも悪い店(笑)
成田:ムチャクチャ悪くって。下がキャバレーで、上がその『ドミノ』っていうゴーゴー喫茶で。当時の立川の不良がみんな集まるような所でした。
-- 後にグループサウンズがライヴをやった所ですね?テンプターズとかダイナマイツとか。
成田:そうですね、あとはジョー山中さんがいた491とかね。色んな人たちが出ていましたね。僕らが出始めた頃は、まだ有名な人たちは出て
いなくてショボショボとやってたんですよ。
ノゾム:あそこはゴーゴー喫茶というか…今で言うディスコって感じ?
成田:今で言うと、クラブですかね。ハコバンって感じとは違っていて、毎日出てるバンドは違うのよ。まあ、地元のアマチュアバンドかな。
ノゾム:ギャラは出たの?
成田:一応出ましたよ。出ましたけど、バンド全員で1500円とか2000円位で。
ノゾム:色んなバンドが出ていたんですね、入れ替わり立ち替わり。そこのお客っていうのは、いわゆる、大人?
成田:まあ、不良っていうか、なんだろうな…だから、あまりお金を使うような奴は来てませんでしたよ。
-- 普通の高校生とかは?
成田:うん、年齢的には高校生的な年齢で…まあ、そこらでチンピラやっている奴とか…そういう感じの17、18歳位の人たち。
ノゾム:悪党予備軍ばっかりだ(笑)
成田:それと、大人なんだけど、縁なしメガネで、何かね、指が無いみたいな人たちとか。
あの系統の人たちも割とR&Bとか好きな人が多くて。まあ、不良が多かったですね。後はたまに立川基地の兵隊さんたちが来て…そこで
僕らが演っているうちに、兵隊さんと仲良くなって、基地に連れて行って貰って。段々そういう感じになって行って。
ノゾム:俺は立川基地があった頃って知らないんですけど、あれ結構デカかったですか?
成田:デカいです。凄くデカかった。飛行場があったもんね。昭和記念公園辺りは全部基地でした。
ノゾム:当時、基地内には結構アメリカからバンドが来てましたか?
成田:プロのバンドは来ていたと思うんですが、僕がアマチュアでやってた頃は観ていません。当時、立川基地の兵隊さんのバンドで
ハウスロッカーズっていう有名なバンドがいたんですよ。当時のアメリカは徴兵制だったので、プロミュージシャンも結構引っ張られて来ていて、
ハウスロッカーズはそういう上手い人たちがやっていたR&B、ソウル・バンドだったそうです。

ドラマーへの転身〜米軍基地ナンバーワン・バンドFalse Morality結成〜赤坂MUGENでの日々

ノゾム:『立川ドミノ』の時は成田さん、まだギターですよね?華麗なる転身は何処で?
成田:華麗じゃないですが(笑)転身はですね、忘れもしない…そのバンドでチョコチョコ『立川ドミノ』でやるようになってから、
たまに渋谷のクラブっぽい所にも出るようにもなったんですが、蒲田の『ブルー・スポット』って店は知らないですよね?もう、
やっぱり悪いのばかりが集まる店で。
ノゾム:名前が良くないよね(笑)
成田:パチンコ屋の2階に割と広いスペースがあって、やっぱりそこもゴーゴー喫茶で。そこへ出た時にみんなで「タイコ来ないね」
って言っていて。そこへタイコの奴からいきなり「美大の卒業制作が忙しいから行かれへんし」って電話がかかって来て、そいつ
「お前が叩けば」って言って(笑)「えー、俺?」みたいになって。
-- それまでドラムの経験は無かったんですね。
成田:学校でのバンド練習の合間に遊びで叩いた事はありましたけど。ライヴで叩いた事も無ければ、1曲まともに叩いた事もなかったし。
-- それでは、その日がドラマーとしての初ステージ?
成田:いきなり。だから、何をやったかなんて全く覚えていない(笑)きっとでたらめだったんだろうな…でもお客さんの踊りは止まっていないし、
まあ、いいかみたいな。
ノゾム:そのドラムの人はそこで辞めちゃったの?
成田:それっきり辞めちゃって。
ノゾム:それっきり辞めちゃったんだ(爆笑)
-- そこから成田さんのドラマー人生が始まる訳ですね?
成田:そこからですね。まあ、ギターにも未練があったので、何人かドラマーをオーディションしたんですよ。だけど、来る人来る人、
もちろん本職だから上手いんだけど、前のドラマーのやり口を知っていたのは俺だったんですよね。そいつはちょっと変わった面白い
スタイルで叩く個性的なドラマーで。そういう風な叩き方にみんな慣れてたから。そういう風に叩ける奴がいなくて。で、下手でも
俺の方が以前の雰囲気を保てるという事でバンドの意見が一致して。上手い奴は来るんだけど合わなくて。
ノゾム:その後、残った3人でやってた訳?
成田:えーと、歌の奴を入れてスタイルが変わったり…その後ゴチャゴチャとメンバーが色々変わったり…そのバンド自体もう半分無いみたいな。
でも深町栄とかもいてね。あいつ同級生って言うか1級若いんだけど。
ノゾム:そうか、そんなに古い仲なんだ。
成田:あとKUWATA BANDのベースの琢磨仁もいて。あいつもそのまた1級下なんだけど。俺ら3人そのままプロになっちゃって。
ノゾム:へぇー、へぇー(爆笑)
-- そのThe Kicksはいつ頃までやっていたんですか?
成田:そのバンドはね、ずっとやっていた感じでは無くて、名前も「これでやめようね」って事でThe Endにしたりして。
それもメンバーが流動的で『立川ドミノ』でやっていた他のバンドの人たちと合体してグチャグチャとやっているうちに、立川基地へ遊びに
行くようになって。その頃、ハウスロッカーズはいなかったんですが、僕が行った時はセンセーションズっていうバンドがいて。
それが当時基地周辺ではナンバーワンのバンドで。それを観に行っては「わあ、ソウル凄げえな」って…ギッシリ入った黒人のお客が踊っている
のを見ていて…彼等の踊りも魅力的だし…「俺がタイコ叩いたら、こいつら踊るのかな?やってみたいな、黒人を踊らせてみたいな」って気分に
段々なって来て。それでもうギターは忘れて行って。
ノゾム:ドラムの気分に移行して行ったんですね。その時代は基地の中では演奏しなかったんですか?
成田:観に行っていた時はやらなかったんですが、その時に、亡くなったケリーさんが、たまたまアメリカ人とバンドをやっていて
「ちょっと手伝ってくれない?」って頼まれたんです。AAカンパニーの小林くんがドラムで。そのうちにそのバンドにいた40歳位の
サム・クックを歌う黒人のおじさんと仲良くなって。で、ケリーさんから紹介されたバンドは立ち消えてしまって。そのヴォーカルと
深町栄とかを誘ってバンドを組んで。それから立川基地とか横田基地で演るようになったんですよ。その頃僕は23歳位でした。
-- その頃はもう大学は卒業なされていて。
成田:もう卒業していて。まあ、絵の学校なんで就職は…。
ノゾム:就職は無いわね(笑)
成田:デザイン会社の写植貼りとか絵の先生しかないでしょ?でも基地で演っていてちょっとギャラが出たりして。
仕送りは途絶えていたけど、家賃を払ってメシ食えるくらいはね。
ノゾム:じゃあ、メインは基地で常時やってた感じ?
成田:割と頻繁にやっていたんだけど、そのヴォーカルのおじさんが古すぎて。あの当時でサム・クックじゃ古過ぎたんですよ。
それで一緒にやっていたメンバーと「客もあんまり来ないし、もっと今っぽいソウルミュージックやりたいよね」って言ってた時に
たまたま「歌わせろ」って言って来た黒人の若い奴がいて。で、そいつルーファス・トーマスとかが凄く上手くて。
それで「こりゃ良いや」って事になって、その黒人のおじさんに「申し訳ないけど辞めさせて」って言って。その若い奴をヴォーカルに
して新たに始めたんです。当時の大ヒット曲、アイザック・ヘイズの「シャフトのテーマ」を引っさげて、横田基地のバンド・オーディションで
演ったらムチャクチャ受けちゃって。それがきっかけで、関東の米軍基地周辺ではそのバンドがナンバーワンになっちゃったんですよ。
だから自分がドラマーだという感じになったのはそこからなんですよ。
-- 楽器隊編成は全員日本人だったんですか?
成田:最初はそうでした。それでベースの琢磨仁が病気になって入院して。1年位リタイアしたんですよ。
その頃、結構オルガンが上手い黒人の奴がいて。深町とツインキーボードでやっていたんですけど、そいつが元々ベーシストで。
それから黒人のベーシストになったんですよ。Michael Carterって名前なんですけど。オハイオ・プレイヤーズとかと知り合いだって
言ってましたね。オハイオ州デイトン出身の奴なんだけど。
今でもやっているみたいで。そいつが良いベーシストで、段々メンバーも増えて行って、それが基地周辺の人気バンドになって。
-- 段々と大所帯になって行ったんですね。バンド名は何ていうんですか?
成田:最初はね、False Moralityってバンド名だったんですよ。Falseって嘘、偽りって意味で、偽りのモラルって事で(笑)
それをつけたのが日系アメリカ人の女の子で。適当な名前…まあ、バンドのメンバーも名前に執着心は無かったので、それでいいかって。
その名前で何年かやっていました・
-- レパートリーは先程のアイザック・ヘイズとかSTAX系でしたか?
成田:そうですね。それとモータウンものもやっていましたが、当時のヒットチャートのトップ40は全部やっていたという感じですね。
流行っている曲をやると人気が出たんです。当時の基地内のバンド、兵隊さんたちはアマチュアだし、すぐに最新の曲は覚えられない訳ですよ。
僕ら日本人はそういう所は器用だから、どんどん新しい曲を覚えて行って。歌手の人が曲を覚えさえすれば出来るから。
-- それで日本中の米軍基地を巡業していたんですね?
成田:日本全国回ってましたね。今は無いですけど、福岡の板付基地とか、北は青森の三沢基地、岩国にも行ったりしましたね。
で、そのうちに『赤坂MUGEN』っていう店に出るようになって。そこでは半分ハコバンって感じでした。
-- そのお話は聞いた事があります。何年くらいの事ですか?
成田:うーん、ハコバンで出始めたのは正確には覚えていないんですが、1970年代の前半から、73〜75年位までFalse Moralityで
『赤坂MUGEN』に出ていましたね。
-- 伝説のお店ですね。当時、毎日のように有名人が来ていたらしいですね。
成田:結構ビッグアーティストも呼んでいたんですよ。BBキングも1週間位ハコバンやってましたしね。後はアイク&ティナ・ターナーとか。
-- その『赤坂MUGEN』で何か印象深い思い出はありますか?
成田:そうすね…本当にビッグアーティストが一杯来たので、印象深い事はありましたが…例えば、コンファンクションって知ってますか?
-- あ、知ってます。ベイエリア系のファンクバンドですね。
成田:まだ有名じゃない頃に彼等もハコで出て、僕らと対バンでやってましたよ。あとテイスト・オヴ・ハニーも。彼等と初めて会ったのは
どこかの基地でしたね。
ノゾム:『赤坂MUGEN』には常時外タレが来ていましたよね?
成田:凄い来てたんですよ。客としても来ていて。例えばチェイス(ヒット曲『黒い炎』で有名なブラス・ロックバンド)とか。
日本では有名な店だったから、外タレが接待とかで来ていたりして。あと、いつも来ていたのが、プロレスラーのアドブラザ・ブッチャー(笑)
彼はドラムも叩くの。たまに「叩かせろ」って。上手いんだけど(笑)それで「お前ら飲め」って言って、俺ら、よくヘネシーとかミックスナッツを
ご馳走して貰っていましたよ(笑)あの額の傷を目の前にしてね。
ノゾム:ブッチャー!来てたんだ(笑)
-- その頃はもう、完全にプロという感じだったのですか?
成田:一応ね。アルバイトはしていなかったんですけど。まあ、箱バンなんで、当時家賃も安かったし。みんなでハウスを一軒借りて住んで、
充分食べて行ける感じでした。でもその頃の僕はプロのミュージシャンでご飯を食べてるっていう意識は無くて。それで生活出来るんで、
ついついね。音楽やってメシ食えているから良いかなという感じで。未来の事とか将来の事は全く考えていなくて。ただ今が楽しいって感じでしたね。

米国ファンクバンドBLACKSMOKEに参加〜アイズレーブラザーズとの全米ツアー

-- 以前、一度立ち話をさせていただいた時に、スモークというアメリカのファンクバンドの話になって。そのスモークに成田さんは加入なされて。
それは正式メンバーとして入ったんですか?

成田:そうすね。いきさつは『赤坂MUGEN』に僕らが出ている時に、そのスモークもハコバンで来ていて。Back to Backというか、
対バンしていたんです。約40日間毎日彼等と顔を付き合わせていたんです。そういうバンドは多くて。彼等は契約が終わると米国へ帰って行って。
で、そのスモークが米国へ帰ってしばらくしたら、僕らのバンドでヴォーカルをやっていた歌の上手い少年がいて…さっき話した奴じゃないんです。
その後に加入した三沢基地で出会ったその黒人の高校生は音域が広くて、スティーヴィー・ワンダーみたいなのを上手に歌える少年で。
それで「高校卒業したら、東京へ来て俺らのバンドに入りなよ」って言ってたら、本当に来ちゃって(笑)で、そいつともう1人のヴォーカルと、
もう1人女性ヴォーカリストも居て、その3人で歌っていたんです。それでスモークと対バンになった時に彼等はその少年を気に入って、
アメリカへ帰った後で彼を引っ張ったんです。で、彼がまずスモークのヴォーカリストになって。
-- その方のお名前を覚えていますか?
成田:Arnold Riggs Jr.です。今はもうプロとしてはやっていないんですが。
-- 当時アメリカにはスモークっていうバンドが幾つかあって、成田さんがいたのはどれかなと思っていたんです。
成田:沢山あったんですよね。それで結局、同じ名前のバンドから訴えられて、後にブラックスモークって名前に変えたんです。
--アルバムが一枚出ているんですよね。
成田:一枚出ているんですよね。それはスモーク名義で出して、後でバンド名もロゴも変えて出し直したんですね。
-- 成田さんはそのアルバムで叩いているんですか?
成田:それは、やっていないんです。それでそのアーノルドがアメリカに行って、アルバムを出す事になったんですよ。
彼が行く前だったと思うんですが、スモークはドナ・サマーのバックバンドをやっていたんです。それでカサブランカ・レコードっていう
レコード会社の社長が、「このバンド面白いから、ドナのバックは他のバンドにして、お前らはデビューしろ」って事になって。
その時に日本に来ていたドラマーがデビューアルバムで叩いたんですよ。その後にアルバム発売後のキャンペンツアーの直前に
タイコの奴、白人なんですけど、気が短い奴で。メンバーとケンカになって。ツアー直前に怒って壁をガーンと叩いて指を骨折したんですよ。
-- 映画みたいだなぁ。
成田:それで結局、そのドラマーは辞める事になって。で、その話でだと思うんだけど、いきなりアメリカから電話がかかって来て。
「来ないか?」って話になって。
-- 白羽の矢が立った訳ですね。
成田:その時点では『赤坂MUGEN』でやってたスモークだって思っていたから。アルバム出してどうのこうのなんて細かい話は
電話では言わないし、「とにかく航空券を送るから、アメリカへ来い!お前は、まず米国大使館へ行ってB-1っていうビザを取れ」って言われて。
ノゾム:B-1って?
成田:ビジネス・ビザの事。当時のアメリカでは日本人ミュージシャンはワーキング・ビザを取れなかったの。唯一取れるのは邦楽、
美空ひばりのバックバンドとか。そういうのは良いんだけど、R&Bとかはアメリカにいるドラマーの職畑を侵すからダメで。
B-1だと日本の会社から給料貰って仕事で行くっていう。これはウソなんだけど。でもアメリカは弁護士の国だから。
弁護士が居ればどうにでもなっちゃう。で、B-1を取ってアメリカに来いって。
ノゾム:当時1ドル、何円?
成田:1ドル300円。当時360円から300円になった頃。
ノゾム:クーッ(笑)300円になった頃だ。当時日本人は普通じゃ行けない時代ですよね?観光って有り得なかったもんね。
成田:観光はね、1000ドル持っていないとダメだった。しかも観光ビザを米国大使館に取りに行かなければならなかったの。
それで女の人は観光ビザ取りに行くと「身体売りません」という確約をしなければならなかった時代でした。
ノゾム:すげーなー。
成田:そういう失礼な事を聞かれる時代でした。まあ、今はね、日本に来る東南アジアの人たちがそういう失礼な扱いを受けているね。
ノゾム:それでアメリカに行ったのは成田さん幾つの時?
成田:28歳です。1976年でした。
--それでアイズレー・ブラザーズのツアーに同行して。
成田:そう、着いたらね、いきなり「明日から1ヶ月リハーサルやる」って聞かされて。「リハーサル1ヶ月もやって、何すんの?」って訊いたら、
「知らないのか?ツアー行くんだよ。これからアイズレー・ブラザーズと一緒に」って。
ノゾム:アイズレーはその頃デビューしてたの?
成田:アイズレーはもう「ツイスト&シャウト」もオリジナルはアイズレーですから。
--当時は全盛期ですよね。弟2人と従弟(クリス・ジャスパー:キーボード)が正式加入して。
成田:アイズレーの人気はアメリカと日本とでは凄いギャップがあって。アメリカに行けば分かるけど全然違うの。もうアメリカでは
スーパースターですから。大きな会場でやっても4万人満タンって感じなの。
--未だに新作を出せば1位になりますからね。
ノゾム:そこへ成田さんはツアードラマーとして行ったの?
成田:アイズレーじゃないよ。そのブラックスモークがアイズレーの前座として同行したの。第一前座が僕達で。
ノゾム:あ、第一、第二があるんだ(笑)
成田:第二前座がワイルド・チェリー(ヒット曲『Play that funky music』あり)。だから僕らが最初に出て、次にワイルド・チェリーがやって、
最後にアイズレー・ブラザーズ。
ノゾム:その三つで周るんだ?
成田:三つで周るんだけど、その場所場所でその地方の有名バンドが出て。
ノゾム:ああ、組み込んで。興行だよねえ(笑)
成田:だから、場所によってはバーケイズが第三前座で出て来たりして。ローズロイス(ヒット曲『Car wash』が有名)もね。
ノゾム:じゃあ、そのスモークはもうレコードデビューはしてたの?
成田:レコード出して、そのファーストツアーだったの。それで虎の衣を借るじゃないけど、アイズレーの名前を借りて、紹介して貰って
みたいなツアーだったの。
-- 移動手段はバスでしたか?
成田:バスでした。大きいバスで。
--アイズレーは当然飛行機で移動して?
成田:アイズレーは飛行機で現地へ来て、空港から1人1台ずつリムジンで来て。
ノゾム:1人1台!なめてんなー(笑)
成田:しかも2人の毛皮着たモデルみたいな女付きで。羽根の付いた帽子を被って颯爽とリムジンから降りて来くるの。
-- あのお兄さん3人ですね。
成田:そうですね。アイズレーって他にも弟たち3人が居て、ギターは末っ子のアーニーで。その上に…。
--マーヴィンですね。
成田:マーヴィンが居て。そいつらはバンドだから僕らと口をきくのよ。特にマーヴィンはフレンドリーな人でした。
俺なんか日本人で珍しいから、ライヴが終わった後の盛大なパーティーで一緒に色んな事をして遊んだりしたんだけど。
兄貴3人は位が違う。取り付く島が無いって言うか…もう口はきけないですよ。もう、ダーンって(ふんぞり返るジェスチャー)感じで。
ノゾム:それで、そのツアーはどれ位かけて周ったの?
成田:1週間に仕事は2日。あとは全部移動。3、4ヶ月で50箇所位。アイズレーは地元のニュージャージーから飛行機でその都度やって来て。
ノゾム:1回毎に戻るんだ?
成田:そう、バス移動なんてする訳が無い。俺たちとワイルド・チェリーはずっとバスで移動。
ノゾム:同じバスで?
成田:いや、別々のバスで。でもホテルは一緒だったりするから…俺、ワイルド・チェリーに麻雀を教えましたよ。
ノゾム:(爆笑)ウソ?麻雀を?牌持っていったの?
成田:いや、ウチのアーノルドが日本に居た時に麻雀好きで。それで麻雀が面白いってワイルド・チェリーに言ったらしいのよ。で
、ニューヨークに行った時に高島屋で麻雀牌と自動麻雀卓をあいつら買ったんだ。それでホテルでワイルド・チェリーと麻雀(笑)
お金は賭けなかったけどね。
ノゾム:日本だと花札だけど(笑)
--そのツアーでマジソン・スクエアガーデンとかLAフォーラムに出たんですね。
成田:そう、マジソンスクエアガーデンでやって、バンドのメンバーが楽屋で金を盗まれて。さすがニューヨークだって(笑)

アメリカでの日々

ノゾム:アメリカにいて英語は大丈夫でしたか?
成田:最初はね、ホント分からなかった。ほら、日本でアメリカ人とバンドをやっていたから、ちょっとは喋れるつもりだったんだけど…
日本にいるアメリカ人って日本人がどんな英語喋るかっていうのを分かっているけど向こうの人はそんなの知らないから、
最初は全く通じなくて。「どうしようかな?」と思いました。でも不思議な事に3ヶ月経ったら、急にパッと喋れるようになりました。
ノゾム:ああ、分かるわ。何か急に世界が開けますよね。
成田:ほら、一応、中学、高校で英語は習っているから、その基礎がね…。
ノゾム:いや、本当に偉大な教育だよ。
成田:ただ、なんたってR&Bのバンドだから、使っている言葉が違う。最初に覚えたのはやっぱり「Fuck」だから(笑)
ノゾム:マジソン・スクエアガーデンねえ…当時日本人で、そういう感じでアメリカン・ツアーを回っていた人は居なかったでしょう?
成田:あんまり居なかったよね…当時ね、アメリカで会ってはいないんですけど、ジャズ・ギタリストの川崎燎さんが居ましたね。
ニューヨークとかボストンへ行った時に、ご活躍なされているという話は聞きましたね。あと当時、現地で会った日本人は
ジョー山中さんですね。僕がLAフォーラムでライヴをやった時にたまたま観に来ていたみたいで。いきなり「日本人ですか?」
と話しかけられて。「そうすけど」と答えたら、「暇な時、ウチに遊びに来ない?」って言われて、彼が住んでいたノース・ハリウッドの
結構大きな家に遊びに行った事がありましたね。
--当時のアメリカは如何でしたか?激動の時代だったと思うのですが。
成田:やっぱりアメリカは広いので…場所場所で雰囲気が違いましたね。例えばメンフィスへ行ったら、当時の黒人ファッションが
一時代古い感じなんですよ。ショッキング・カラー・レザーのツギハギのジャンプスーツ的なパンタロンにロンドン・ブーツみたいな。
もうそんな時代ではなかったから、「ああ、田舎なんだな」と思ったんですけどね。それで、そのツアーでフィラデルフィアへ行ったら 、
もっと古くて。コンポラ・スーツが流行っているんですよ。俺、流行が一回りしたのかと思って…フィラデルフィアはサム&デイヴ時代の
玉虫色の三つボタン・スーツみたいな感じでした。NYは当時からカジュアルで、LAもカジュアル…Tシャツにブルージーンって感じ。
当時、西海岸サウンドが流行り始めた頃で…僕は1976年が境目だったと思ったんですが…。
--ディスコの台頭ですね。
成田:そうですね。そのツアーの為に初めてLAに着いた時、バンドのメンバーが車で迎えに来てくれて。「さあ行こうか」って
カーステレオをパッと点けたら、ボズ・スギャッグスの「Low down」がまずかかって。その後、ジョージ・ベンソンの「Breezin’」が流れて…。
ノゾム:AORの時代だ。
成田:その2曲がループみたいに何度もかかるんですよ。いわゆるソウル・ミュージックみたいな流れがそこで終わって、
ジャズ・ミュージシャン達が参入するAOR / クロスオーバーの時代になる訳ですよ。
--ちょうどStuffが出てくる頃ですね。
成田:僕が行った時のアメリカは、もうそんな感じでした。

帰国直後の活動〜初期『Chicken Shack』の光景

ノゾム:それで、4ヶ月のツアーが終わって、帰国したの?
成田:一応それでツアーが一段落したんですけど…そのカサブランカ・レコードの社長が映画に手を出したんですよ。
カサブランカ・レコード社長のニール・ボガートは、気分はハンフリー・ボガートみたいな人で。僕らがレコード会社へ行って、
まず扉を開けると、受付の女の子が居る後ろの壁にはハンフリー・ボガートがタバコを吸ってる大きな絵がバーンと飾られているの(笑)
ノゾム:本気だ、フフフ。
成田:その社長が映画に手を出して、会社の資金繰りが悪くなったの。それで「売れてない所から切る」って言い出して、
真っ先に俺らがクビになったの(笑)
ノゾム(爆笑)
--だから、アルバムは1枚しか出ていないんですね。カサブランカ・レコードってディスコの先駆け的なイメージがありますが。
ドナ・サマーは正にそうだし。

成田:そう、ディスコ時代に突入する頃でしたね。で、クビになって契約が切れたので、今まで付いていた弁護士がいなくなったんですよ。
それでそのまま米国に滞在しているとビザも違法になっちゃうので…「どうしようかな?」と思っているうちに少しずつ時間も過ぎて…
チョコチョコ潜って、訳の分からないレコーディング仕事をしたりして。あと地方に…サンフランシスコとかへライヴしに行ったりしていたんですが、
「このままやっていて捕まって強制送還になったらどうしょう」と思っていて…それで「今度の仕事はカナダの店でハコバンだ」って言われて。
「行くのは良いけど、ビザの関係でアメリカへ戻れない」って事になって。それで俺、「じゃあ、日本へ帰るわ」って言って。それでカナダへ行く
ドラマーのオーディションに立ち会ってから日本へ帰って来ました。ちょうど1年半位の滞在でしたね。
--誰かのレコーディングに参加したんですか?
成田:そんないい話じゃなくて…「レコーディングあるから行け」って言われて…何のレコードかも分からないし。誰かが「これはパンクだ」って
言ってました(笑)白人の訳の分からない歌手で…マイナーなインディーズっぽい感じのレコーディングでしたね。あとはスモークでチョボチョボ、
ライヴをしたりして…まあ、半分は遊んでいましたね。
ノゾム:成田さんは、渡米する前に日本でセッションミュージシャンはしていないですよね?
成田:ゼロでは無いですが。いわゆる仕事になっている程の事はやっていなくて…まあ、新米で、スタジオ行って現場の勉強みたいな事は
あったけど…まあ、無いですね。
ノゾム:で、日本に戻って来たのは何年?
成田:1977年です。ちょうど30歳の頃。
ノゾム:復帰はどうしたんですか?復帰じゃない、凱旋ですね(笑)
成田:戻ってきて、しばらくブラブラしていたんですけど…程無くね…何を最初に始めたのかを覚えてないんだけど…BOROさんって知ってますよね?
「大阪で生まれた女」の。その人のツアーに参加して。それはドラムじゃなくてパーカッションでね。俺、パーカッショニストじゃなかったんだけど(笑)
ノゾム:ひでぇなー(笑)
成田:まあ、ロック、レゲエのアレンジが多かったので(笑)ほら、レゲエ・パーカッションなんて素人でも出来るじゃないですか?チャッカ、チャッカ、
ポコンって(笑)あとドラムだと高木麻早さんっていうニューミュージック系の一時ヤマハでやっていた方のバックをやりました。でも何せ一番僕が
不得意なニューミュージックだったので…録音した物をある日聴いた時に、自分の酷さに愕然としました。明らかに情熱がこもっていないなと思って。
これはやらせて戴いたら悪いと…それで辞めさせて貰いました。麻早さんは「何で辞めるの!」って言ってましたが。「すみません」って謝って。
--その頃、もう福生に住んでいたんですね?
成田:そうすね。アメリカ行く前のバンド時代も兵隊さんが「これで練習できるね」ってハウスを一軒借りてくれて。
その頃から福生には住んでいました。瑞穂町かな?ジャパマだったから。それでアメリカから帰国直後は川越の実家に居ましたが、
すぐ福生へ行って、バンド仲間のハウスに少し住んで。それから自分でハウスを借りました。
-- 1970年代後半の福生はどうでしたか?
成田:まあ、やっぱこの辺は好きですね。凄く良かったですよ。
ノゾム:牛浜に『BP』って店があったけど、その頃成田さんは行きましたか?
成田:その頃は行っていないですね。『BP』へ行ったのは僕が福生って所を初めて知った頃です。
ノゾム:どの辺にあったの?
成田:ファミレスがある踏み切りの東側の角です。今、居酒屋になっている狭い所。ソウルの殿堂だと思って行ったら、ただのスナックでした。
--そうなんだ。俺が来た頃にはもう無かったんだよな。
成田:まあ、渡米する前から福生には住んでいたんだけど、全く繋がりが無くて…基地とハウスと『赤坂MUGEN』の行き来だけでした。
それで帰国して、ほんの数日後に友達が「Chiken Shackって店があるんだよ」って教えてくれて。
ノゾム:まだ出来たばかりの頃だよね。
成田:そう、それで初めてシャックに来て。
ノゾム:成田さんがシャックで初めて出たバンドは何でした?深町栄さんのバンド?
成田:そうだと思う。GAMEですよね。
ノゾム:GAMEのヴォーカルの奴…ツイン・ヴォーカルで…黒人の女性でしたっけ?
成田:いや、シャックに出ていた頃は女性ヴォーカル居なかったかもしれない。
ノゾム:俺、何度か観たんだよなあ。
成田:インストだったと思うよ…あれ…スープかな?
ノゾム:あ、そう、スープ!
成田:あれは帰って来た頃だね。
ノゾム:GAMEは人気あったもんね。あれは深町さんが作ったバンド?
成田:まあ、みんなで…あの頃の仲間でね。誰が作るともなくやるからね。それで、また『赤坂MUGEN』に出ていたりしていたの。
そのスープが居た頃ね。昔の残党で出たりもしていたんだけど。終いにはでたらめになって来て、マイルス・デイヴィスみたいになって来て(笑)
ソプラノ・サックスにワウワウ付けたり、フロアーの四隅にスピーカーを置いたりして「サラウンドだ」なんて…何をやっているんだ(笑)
ほら、もう巷はディスコ全盛で、ソウルミュージックだって言っていたのが面白くなくなって来ちゃって…で、俺らはそれに反発して実験的に
なったという時期がありましたね。
ノゾム:そうだよね。成田さんは20代後半でアメリカ行ってツアーで一回り観て来てさ。日本戻って来てもう一回やるってのも、
ちょっとかったるいって所もあるよね(笑)
成田:でもね、時代がね、どんどん流れて行くでしょう?そうすると自分が出会って感激した音楽とは全然流れが変わって来ちゃって…
目標にしたいアイドルみたいなのが居なくなっちゃったの。僕が渡米する前は、ある時期から頭の中が全部スライ・ストーンになっちゃって
いた時期があって。ああいう感じのモノがやりたかったんです。でもアメリカへ行ってバンドメンバーに「スライ・ストーン観たい」って言ったら、
「止めとけ」って言われて。
-- 当時、もうスライがジャンキーでダメになっていた頃ですね。
成田:「観に行っても、最近はライヴが成立した事が一度も無い」って言われて。客を何時間も待たせて、最後にヘロヘロ状態で出て来て、
数万人の観客に向って「Fuck you!」って言って帰っちゃうんだって。最後は担架で運ばれて行くという噂でした。僕は「絶対観たいな」と思って
いたんですけどね。で、スライのニューアルバムが出たっていうので買ったんですよ。『Heard you missed me, well I’m back』っていうLPを。
でも聴いてがっかりして捨てちゃったんですよ。それは明らかにスライの音ではあるんだけど、昔のラジカルな感じが抜けちゃって「ちょっと売れて
お金作りたいんです、聴いてください」みたいなLPだったから…そこから目標が無くなってしまったんですよ。福生に帰って来ても聴きたい音楽が
無いし…それで実験的な事を始めたり、スープ達と『赤坂MUGEN』で演ったりしたんだけど、もう時代が完全にディスコになっていたから、
ドラムは全部四つ打ちで。「これだったら俺が叩かなくてもいいじゃん。じゃあ、土方やろう、体力余っているし」って思って(笑)

パーカッションへの傾倒〜福生サウンドの秘密

ノゾム:成田さんがサルサというか、ああいうパーカッション系に傾倒して行ったのは何故?
成田:あれは…聴きたい音楽が無くなっていた頃に、やっぱり何だかんだ言ってもアフリカ系の人たちがルーツに持つ音楽っていうのに
興味があって。サルサとかレゲエとか、ああいうポリリズムがポコポコした音楽に耳を奪われるので…ドラムはディスコビートじゃ面白くないけど、
パーカッションだとそういう余地があるのかなと興味を持って…。
ノゾム:BOROのバックで適当にパーカッションやってから、継続してパーカスをやっていた訳ではないんだ?
成田:そうですね。楽器自体持っていなかったし…あ、鈴木次郎さんてBOROのドラマーだった方がスタジオ系の仕事もやっていらしていて。
その方の先輩、大御所スタジオミュージシャンの穴井さんという人がサルサバンドをやっていて。鈴木さんが僕に「ドラマー募集してるから、
どう?」って言って。それはスタジオミュージシャンが余暇でライヴハウスでチャージバックで演るようなバンドだったんだけど。そこで初めて
サルサをやって。サックスの春名氏ともそこで初めて会ったんですよ。そのバンドは10何人かの大所帯でみんな売れっ子なんだけど、
自分が聴いているサルサよりもフュージョンぽい感じで…それで榛名氏と意見が合って。通じ合う所があって…彼を家に誘って、
あとカンちゃん(野坂稔)も一緒になってその辺にある楽器を引っ叩いて遊んだりしていたんですよ。そうしているうちに盛り上がって
コンガを買って、いじっているうちに面白くなって行って…。
ノゾム:これは俺の印象なんだけど、たまに人から「福生の音楽って何?」って訊かれるんですよ。そういう時さ、たぶん成田さん達が
やっていたせいもあるんだろうけど、あの
サンタナ的なサウンドが思い浮かぶんだよね。何故だかは分からないけど。
成田:ひとつはね、僕が帰国して最初に『Chiken Shack』に行った時に観たバンドがキングコング・パラダイスだったんですよ。
まあ、僕がアメリカで観た音楽シーンとは全く違ったんだけど、当時のキングコングは物凄く勢いがあって…「これはこれで面白いな」
と思って…その頃、カンちゃんとかロコ(中田ヒロシ)とかも居て…あの頃はカオルくんだったかな…とにかくパーカッシヴでドカドカした勢いがあって。
それと同時にカンちゃんとロコが組んだタスマニア・デビルってバンドも観たんですよ。その後、彼等はキングコングと合体して、
サルサをやっていたじゃないですか?レゲエも入っていて…南條幸司はかなりレゲエに傾倒していて。最初に観た時のキングコングは
R&Bだったんだけど、その後で段々サルサムードになって行って…。
ノゾム:いろんなビートが入って来たんだよね。
成田:そうそう。それが面白いんで、カッちゃん、ロコ、南條たちと話すようになって、サックスの榛名氏たちと合体して俺の家で音を出して
遊んでいたんですよ。そのうちにパーカッションの仕事も本格的に入って来るようになって。それでサルサバンドをやるようになったんですよ。
ノゾム:なるほどねえ。俺はその歴史の成り立ちが知りたかったんだ(笑)福生にはあのラテンっぽい感じの下地が常にあるんだよね。
ハウスがあるからっていうのもあるんだろうね。大きな音が出せたっていう。
成田:それは大きいですね。まあ結局サルサもレゲエもR&Bもルーツが一緒なので…僕はその辺が好きだったんですね。
それとその当時のムードと相まってこういう形になって行ったんですね。
ノゾム:そうなんだよね。基地の街で白人もいる訳だから、レッド・ツェッペリンみたいなハードロックでも良かったんだろうけど、
何故かラテンのノリがあるよね。

福生の環境が僕を育んでくれた

ノゾム:成田さんは凝り性だから、一つの楽器にハマった時期ってあるんでしょうね?コンガとか。
成田:そうですね…努力は一切していないんですけど、振り返ってみれば、何かよくいじくっていたっていう時期はありましたね。
コンガはね、やっているうちに面白くなるから。
福生のハウスだから、大きな音を出しても文句を言われないじゃないですか?コンガは集合住宅じゃ無理でしょ?
でもハウスだと成立しちゃうんですよ。それが福生の利点というか助かったなというところですね。勉強するようにコンガを覚えようと
するのは大変かもしれないけど、ハウスでいつでも叩きたい時に叩けたっていうのが…修行みたいじゃないからね。だから努力して
頑張っている人には申し訳ないんだけど、いわゆるプロで食べて行く為の練習は一切した事は無いですね。本当に福生のこの
環境に育まれたんでしょうね。
-- もちろん、元々才能があったんでしょうね。
成田:それはね…運命って奴じゃないかと思う。ここに来たっていう運命。最初に言ったように僕は子供の頃、周りの誰よりも
音楽が下手で、才能は無いと思っていたの。それから考えれば、音楽を好きになって、この福生の環境があったら、誰でも
なれるんじゃないのかなと。それは才能だとは思わない。
ノゾム:なっちゃう、なっちゃう。それは凄く良く分かる。やっぱり環境とのマッチングは大事だよね。
成田:そう、それはこの『Chicken Shack』もそうなんだよね。はっきり言って、パーカッションを始めて、その仕事でメシを食え
るようになったきっかけは『Chicken Shack』だし。
つまりは福生の環境なんですよ。
ノゾム:日本でさ、ドラマーとかパーカスの人って全体的に数が少ないじゃない?それは住宅事情がデカいんだよね。練習出来ないじゃない。
成田:だけど、みんな上手くなりたいから、効率良く練習しようとする訳ですよ。
ノゾム:譜面とか使ってね。
成田:そうなると、それは『効率』の音になっちゃう訳ですよ。あのアメリカの音は、勉強した感じではないですよね?
日本とアメリカの音楽の大きな違いって、そこなんだけど、日本はある種の勉強っぽい感じがあるでしょう?
ノゾム:最後まで続きますよね。そこなんだよな。だから成田さんがヤマハを嫌いっていうのが分かるもん。
嫌いなんて言ったら怒られるな。今の箇所はカット(笑)やっぱり勉強形式っていうのは日本人に向いているのかな?
成田:そういう環境で効率良く上手くなりたいから、勉強しちゃいますよね。
-- その辺がやっぱり福生は違うんですね。基地の街ならではの環境があって。
成田:だから、僕じゃなくても、この環境とこの運命があったら…当時、黒人の兵隊さんに会えたのも運命だったし。

桑田佳佑との出会い

ノゾム:桑田佳佑さんとやるようになった経緯はどんな風だったんですか?もう長いですよね。
成田:そうなんですけど、桑田さんとは付かず離れずって感じです。本格的に…本格的でもないけど、桑田さんのレコーディングに
参入し始めたのはそんなに昔じゃないんですよ。
関係的に言うと、僕は小林克也&ナンバーワン・バンドが始まった時から参加してたんです。その時にギターの斎藤誠くんと出逢ったんです。
斎藤くんは桑田さんの後輩なんですよ。で、ナンバーワン・バンドをやった頃は桑田さんが小林克也さんと親しくて。
それで桑田さんも参加して。僕はその頃には桑田さんとは会っていたけど、彼はずっとサザンだったから…『KUWATA BAND』の
録音にも僕は参加していないんです。そう、学生の時のバンド仲間だった琢磨仁がKUWATA BANDのベーシストになったんですよ。
それで、僕が斎藤くんと会った頃、彼はアイドル・ロックスター的なステイタスが厭でアメリカへ武者修行に行ったんですよ 。
それで彼が帰って来てから作った『CHANGE IT』というアルバムに僕が参加して、そこから斎藤くんとの濃い付き合いが始まりました。
彼のアルバムにもライヴにも参加して…で、サザンの大森さんが辞めて、斎藤くんがサポートでやるようになって。それから僕も桑田さんの
レコーディングにチョコチョコ参加するようになったんです。今、桑田さんがやっているバンドって毎回多少メンバーが変わるんです。ドラムは
河村 "カースケ"智康の時もあるし、元レベッカの小田原豊くんや、初代ナニワエキスプレスの鎌田清の時もあるし。ベースも斎藤バンドの
角田俊介くんもいるし、井上富夫くんもいるし…ギターも佐橋佳幸くんとか小倉博和くんとか、スタジオミュージシャンの大御所の方々が
沢山いらっしゃるんですよ。斎藤リズムセクションの時はキーボードで片山敦夫くんと深町栄が入っています。
ノゾム:深町さんとは全然会っていないんですが、彼は元気ですか?
成田:元気ですよ。また太ってるけど。
ノゾム:あっ、太っちゃった?(笑)全然会っていないなあと思って。
成田:元気元気。まあ、相変わらず。変わっていないですね、あんな感じ(笑)

「踊らせたい」それが原点

ノゾム:成田さん、これからの野望ってありますか?
成田:野望ですか?野望は無いです。というか、自分は目の前にある好きな事をやるだけでずっと過ごして来ているので(笑)
--それでもう40年以上やって来ている訳ですものね。
成田:そうですね、本当にその時任せ、自分の欲望任せというか、その都度自分の耳を捉えて離さない音楽があったら、
それを自分なりに再現してみたいという感じです。振り返ってみると、気が付いたらもうこんなに時間が経っちゃったって感じは
あるんですけど…まあ、振り返りもしませんが(笑)ひとつあるのは、やっぱり初めて米軍基地で演奏した時に…ちょうどベトナム戦争
の時代だったので、戦場に行った人、これから戦場へ行かなきゃいけない人、地獄を見て還って来た人たちが、僕が出すビートで
我を忘れて踊ってくれるんだという、あれが結局ずーっと自分の中にこう…….。
-- 原点というか。
成田:原点であって。「踊らせたい」っていうのがあって。また最近、時代が変わってきて、昔70年代前半に福生で見た黒人みたいに
歩く姿からもう踊っている黒人が最近いないな
と。歩き方が日本人と変わらないじゃないかという風になって来ていますね。
ノゾム:いないねー。確かに違うもんね、ステップが(笑)居なくなったもんね、いかにも黒人みたいなのが。
成田:最近、基地の中で演奏しても踊る奴が居ないんですよ。あの黒人ならではのリズム感がどこかへ行っちゃっていて。
僕は相変わらず、スタコラ踊らせたいんですよ。とにかく何でもいいから踊って欲しいと思っていて。それでここ10何年前から、
インドネシア人というのが踊る奴等らしいぞという事が分かって。
ノゾム:そういう事だ(笑)確かに踊るわ。
成田:それでダンドゥットをやり出して。インドネシア人を見ていて凄いなと思うのは、彼等は「酒も飲んでいないのに音楽で
あれ程酔えるのか?」と思う位、音楽に酔うんですよ。子供もだよ。俺がタイコ叩くとクーッとエクスタシーっぽくなるもんね。
「これだよな!」って思って。サルサを始めた頃もそうだったけど、日本に居るヒスパニック系の人たちって、やっぱりそうやって
踊ってくれるじゃないですか?
-- 即、反応してくれますね。
成田:そう。だから僕はライヴハウスで観客が椅子に座って観る感じの音楽は好きじゃなくて。そういう音楽もあるんですけど、
僕の音楽じゃないなと。踊らせたいなと…ずっと刹那的に生きて来たんですけど、振り返ってみてひとつだけ言えるのは、
ずーっと踊らせたかったという事。もっと簡単に言えば、浮かれて欲しいという事(笑)それが原点というか、そこから来ているから…
悲しい曲でも音楽っていうか、歌になっちゃったら、そこに浮かれが生じる訳じゃないですか?普通に喋るよりは……例えば
ニューオリンズのお葬式で楽隊が悲しいメロディを弾いていてもリズムがあるという事は、もう浮かれている訳ですよ。
浮かれる事によって少しでも悲しみから救われるという…まあ、理屈は無いんですけど、自分のコンセプトというのは
「浮かれさせたい」という事ですね。自分が一番浮かれたいんですけど(笑)それでみんなで浮かれられたら 、こんなに幸せな事は無いっていうね。

インタビュアー:Keiichi Kodama

2013年3月 チキンシャックにて